top of page
  • 執筆者の写真Ryo Sano

70-80年代の安藤建築

更新日:2018年9月17日


この節目を横断する安藤建築が、この北野町に残っているのが、そもそも面白い。

前代60年代末期の篠原先生による「住宅は芸術である」、磯崎さんの「都市からの撤退」というアフォリズムにも表れるように、建築の存在意義を建築の内側・個人に見出したのがまさに70年代の建築だった。


小住宅であれば、とりわけ中野本町の家・代田の町家・住吉の長屋のような都市住宅は、都市に対して閉ざすことでその自律性を担保したけれど、こと商業施設は建築の外側から人を招き入れることが宿命であるため、住宅と同じアプローチを取ることはできない。

外側に依存することが絶望的な状況の中、商業施設がどのように自律性を担保したかというと、自己組織化にあったのだと思う。この問題の背景には、神代さんの1974年の巨大建築論争の発端の発言にも通底することがあるんじゃないだろうか。

山下先生の1975年のフロムファーストビルは内蔵した広場を「胃袋」とアナロジカルに表現し、建築をひとつの人体として自律化させてみせた。

これは店舗と人との接触面積を増やす、という狙いでもあった。

この写真のローズガーデンも時同じくして1977年に竣工。

通りから低くて暗いゲートの先に、明るく吹き抜けた中庭が広がる様子が垣間見えるという、吸引力ある構えになっている。

安藤さんの建築はよく「迷宮」に例えられることがあるが、これは都市からの撤退の末に、建築の自律性を担保する安藤さんなりの解答だったのだと、中庭に立って気付いた。



また、傾斜地に立つレベル差を商業施設に利用するのは、後述する1986年のRiran's gate、あるいは1981年のリンズギャラリー、小篠邸のようなクリティカルリージョナリズムとの接続の萌芽とも見て取れる。

80年代に入るとメディア主導の多様性ある社会の空気を共有するように、建築も応答すべく外へと開き始める。

建築が外へ開こうとするときに、安藤さんは用心深いのか、警戒心が強いのか、社会へと開くのではなく、土地に対して開き始める。

写真は1986年のRiran'sGateだが、隣の敷地の樹木を借景にして中庭に取り込んでいる(ように、巧みに偽装している)。敷地の傾斜をレベル差に置き換えて、それを商業の表面積の拡大に充てている。(クリティカルリージョナリズムとしては、1981年のリンズギャラリーの方がわかりやすい。)

この劇的な社会の変化を、安藤建築を通して体験できるのが、北野町の面白さのひとつかもしれない。


bottom of page